イタリア王の一覧 (西方正帝の廃止~ランゴバルド王国)
ローマ帝国の西方正帝が廃止された後にイタリアを支配した人々が使用した君主号。
西方正帝の廃止からランゴバルド王国が事実上滅亡するまでの王を一覧で表記。
ヘルール族の族長オドアケル~東ゴート王国
名前は本名ではなく通称を表記しています。名前 | アルファベット表記 | 在位期間 |
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説明 | ||
オドアケル | Odoacer | 476年~493年 |
ゲルマン人の将軍。ロムルス・アウグストゥルスを追放し、西ローマ皇帝の帝位を廃止してイタリア本土を統治する法的権限を得た。帝国内の混乱を収拾したが、東ゴート王テオドリックに敗れ殺害された。
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テオドリック | Theodoric | 493年~526年 |
東ゴート族の王。東ローマ皇帝ゼノンにオドアケル討伐を命じられ、イタリアに侵攻してオドアケルを破り、イタリア王に即位した。東ローマ皇帝により王位が公認され、東ゴート王国が誕生した。
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アタラリック | Athalaric | 526年~534年 |
テオドリックの孫(母アマラスンタがテオドリックの娘)。幼少のため母アマラスンタが摂政として統治した。
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テオダハド | Theodahad | 534年~536年 |
テオドリックの妹アマラフリダの息子。アタラリック死後、アマラスンタから共同統治者として指名されたが、謀反を起こし東ゴート王に即位した。しかしその事が東ローマ帝国のイタリア侵略の原因となり、ゴート軍の将軍たちに暗殺された。
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ウィティギス | Vitiges | 536年~540年 |
ゴート軍の将軍。軍隊の推挙により東ゴート王に即位した。東ローマ帝国に占領されたローマの奪還を試みるが失敗した。休戦協定を破棄した東ローマ軍に、首都ラヴェンナを包囲され降伏した。
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イルディバルド | Ildibaldo | 540年~541年 |
ヒスパニアの西ゴート王テウディスの甥。東ゴート族の王として迎えられた。
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エラリーコ | Erarico | 541年 |
イルディバルドが暗殺された後、ルギイ族に擁立され東ゴート王に即位した。東ローマ帝国との和平交渉でイタリア全土を差し出そうとしたため、暗殺された。
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トーティラ | Totila | 541年~552年 |
従兄弟のエラリーコの暗殺後、東ゴート王に即位した。東ローマ帝国からローマ奪還に2度成功するが、長く持たなかった。タギナエの戦いで戦死した。
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テーイア | Teia | 552年~553年 |
トーティラの戦死後、東ゴート王に即位した。東ローマ帝国とモンス・ラクタリウスで戦い、東ゴート軍は敗北し戦死した。これにより東ゴート王国は滅亡した。
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ランゴバルド王国
名前は本名ではなく通称を表記しています。名前 | アルファベット表記 | 在位期間 |
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説明 | ||
アルボイーノ | Alboino | 568年~572年 |
ランゴバルド族の王。他の異民族と連合してイタリアに侵入し、北イタリアを東ローマ帝国から奪い、ランゴバルド王国を建国した。
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クレーフィ | Clefi | 572年~574年 |
アルボイーノが暗殺された後、諸侯にイタリア王及びロンゴバルド王として選出された。王位に就いて18ヶ月で暗殺された。
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アウタリ | Authari | 584年~590年 |
クレーフィの息子。クレーフィ暗殺後、ランゴバルド人は王を持たず、諸侯が合議して支配する諸公の時代となる。フランク王国と東ローマ帝国が同盟しようとしたため、挟み撃ちにあうことを恐れた諸公が結束のためアウタリを王に選出した。
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アギルルフォ | Agilulfo | 590年~616年 |
アウタリの死後、アウタリの后テオデリンダを娶り王位に就いた。毎年の貢納を条件にフランク王国と和睦し、ローマ教皇とも講和した。ローマ人有力者を宮廷に登用し,王妃の勧めでカトリックに改宗した。統治制度が整備されて、ランゴバルド国家が本格的に始まることになる。
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アダロアルド | Adaloaldo | 616年~626年 |
アギルルフォの息子。即位時、少年のため母テオデリンダが摂政として統治を行う。姉の夫であるアリオアルドに追放された。
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アリオアルド | Arioald | 626年~636年 |
アダロアルドの姉グンデベルガと婚姻。諸公の支持を得てアダロアルドを追放して、自ら王位に就いた。
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ロータリ | Rothari | 636年~652年 |
アリオアルド死後にその妻グンデベルガを娶り王位に就いた。イタリア北部に残存した東ローマ帝国領を奪取した。ゲルマン古来の法慣習を成文化したロターリ王法典を編纂した。
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ロドアルド | Rodoald | 652年~653年 |
ロータリの息子。愛人の夫により暗殺された。
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アリペルト1世 | Aripert I | 653年~661年 |
アギルルフォの后テオデリンダの甥。ロドアルドの暗殺後に、バイエルン公の支援を受けて王に選出された。遺言で2人の息子に王国を分割統治するようにしたが、それにより内戦が生じた。
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アリペルト1世 | Aripert I | 653年~661年 |
アギルルフォの后テオデリンダの甥。ロドアルドの暗殺後に、バイエルン公の支援を受けて王に選出された。遺言で2人の息子に王国を分割統治するようにしたが、それにより内戦が生じた。
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ペルクタリト | Perctarit | 661年~662年 |
父アリペルト1世の死後、王国は兄弟に分割して相続された。ペルクタリトはミラノを統治した。兄弟間で内乱が起こるが、ゴデベルトがベネヴェント公グリモアルドに暗殺されると逃走した。
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ゴデベルト | Gundipert | 661年~662年 |
父アリペルト1世の死後、王国は兄弟に分割して相続された。ゴデベルトはパヴィアを統治した。兄弟間で内乱が起こると、ベネヴェント公グリモアルドを招いたが暗殺された。
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グリモアルド | Grimoald | 662年~671年 |
ベルタリードとゴデベルトの内乱に乗じて、ゴデベルトを暗殺、ベルタリードを追放してランゴバルド王位を簒奪した。
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ガリバルド | Garibald | 671年 |
グリモアルドの息子。追放されたペルクタリトが帰還すると、王位を奪われた。
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ペルクタリト | Perctarit | 671年~688年 |
グリモアルドの死後、帰還して王位を取り戻した。カトリックを公式の宗教と定めたことで、アリウス派のトリデントゥム公アラヒスが反乱を起こした。アラヒスを捕らえ許して解放したが、再び反乱を起こされて暗殺された。 |
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アライス | Alahis | 688年~689年 |
トリデントゥム公。ペルクタリトに反乱を起こすが失敗して捕らえられる。許され開放された後、再び反逆してペルクタリトを暗殺した。 |
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クニペルト | Cunipert | 688年~700年 |
ペルクタリトの息子。アライスを迅速に討伐して王位を奪還した。 |
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リウトペルト | Liutpert | 700年~701年 |
クニペルトの息子。幼少のため家庭教師アンスプランドが摂政として政治を取り仕切る。トリノ公ラジンペルトに退位させられた。 |
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ラジンペルト | Raginpert | 701年 |
ゴデベルトの息子、トリノ公爵。リウトペルトを退位させて自ら王位に就くも、間もなく死去。 |
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アリペルト2世 | Aripert II | 701年~712年 |
ラジンペルトの息子。父の死後、リウトペルトを暗殺して王位に就いた。追放されていたリウトペルトの摂政アンスプランドが、アルプスを越えて進軍してくるとパヴィア郊外で戦闘となる。戦闘が劣勢と見て逃亡、その途中に溺死した。 |
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アンスプランド | Ansprand | 712年 |
リウトペルトの摂生を務めていたが、ラジンペルトに敗れて追放された。バイエルン公の援助を受け大軍を率いて帰国し、アリペルト2世に勝利して王位に就いた。しかし3ヶ月で病死した。 |
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リウトプランド | Liutprand | 712年~744年 |
父アンスプランドの死後、王位に就いた。東ローマ帝国とローマ教会の対立を利用し、東ローマ帝国領に侵攻し、ほぼ全イタリアを支配した。また、フランク王国の宮宰カール・マルテルと同盟してムスリムと戦い、コルシカ島を従属させた。 |
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ヒルデブラント | Hildeprand | 744年 |
リウトプランドの甥。諸侯から後継者に選ばれ王位に就いた。東ローマ帝国とローマ教会の両方に敵対する無能さから、反乱を起こされ退位させられる。 |
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ラトキス | Ratchis | 744年~749年 |
イルデブランド追放後に諸侯からランゴバルト王に選出された。ローマ教会の介入により、王としての権威が失墜して退位させられる。 |
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アイストゥルフ | Aistulfus | 749年~756年 |
兄ラトキスが退位後にランゴバルト王に即位。東ローマ帝国領のラヴェンナを征服して総督府を滅ぼした。ローマ教皇が救援を求めたフランク王ピピンに2度敗れ,征服したラヴェンナを返還した。 |
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デシデリウス | Desiderius | 757年~774年 |
アイストゥルフの死後、その兄ラトキスと王位を争う。ローマ教皇とフランク王国の支援を受けて、ラトキスを破り王位に就いた。しかし、領土拡大を目指し教皇領に侵入したため、フランク王カルロ・マーニョの遠征軍を招き、首都パヴィアが陥落して廃位された。これによりランゴバルド王国は滅亡した |