イタリア王 (カール大帝の戴冠 以降)

イタリア王 (カール大帝の戴冠 以降)の一覧

ローマ帝国の西方正帝が廃止後にイタリアを支配した人々が使用した君主号。
カロリング朝フランク王国の国王カールが、ローマ皇帝として戴冠してからの王を一覧で表記。

フランク王国

名前は本名ではなく通称を表記しています。

名前 アルファベット表記 在位期間
説明
カール大帝 Charles the Great
774年~814年
仏語ではシャルルマーニュ(Charlemagne)。フランク王国の国王。ローマ教皇の要請でアルプス山脈を越えイタリアに侵攻、ランゴバルド王国の首都パヴィアを攻め落としてた。これによりランゴバルド王国は事実上滅亡した。欧州各地に出兵して領土を広げ、西ヨーロッパに大帝国を樹立した。ローマ教皇レオ3世によってローマ皇帝として戴冠した。
ピピン Pepin
781年~810年
カール大帝の次男。イタリア王位を分与されたが、父に先立って死去。
ベルナルド Bernardo
810年~818年
ピピンの庶子。父の死後、イタリア王位を継いだ。カール大帝の三男ルイ1世が3人の子供に王国を分割統治させようとしたため、反乱を起こしたが鎮圧された。
ルイ1世 Louis I
818年~822年
独語ではルートヴィヒ1世(Ludwig I)。カール大帝の三男。3人の子供による分割統治を決めるが、末子にも王国を分け与えようとしたことで、3人の息子の謀反に遭い一時的に廃位された。兄弟間の抗争は内乱に発展し、フランク王国の分裂という結果を招いた。
ロタール1世 Lothaire I
822年~855年
ルイ1世の長男。父の死後、王国全土の支配を求めるが、2人の弟の同盟軍に敗れて王国を3分割する案で講和した。ベルダン条約で皇帝位と中部フランク、イタリアを獲得して中部フランク王国と呼ばれた。
ロドヴィコ2世 Ludovico II
844年~875年
父ロタール1世は中フランク王国を3分割して3人の息子に相続させた。長男のロドヴィコ2世は皇帝位とイタリアを獲得した。南イタリアのイスラム勢力の侵入に東ローマ帝国と協力して対処した。
カール2世 Karl II
875年~877年
禿頭王のカールとも呼ばれる。ルイ1世の末子。ベルダン条約で西フランクを獲得し,西フランク王となる。ロドヴィコ2世の死後、イタリアに侵攻してローマ皇帝として戴冠を受けた。
カールマン Karlmann
877年~879年
東フランク王国の国王。叔父の西フランク王カール2世の逝去後、イタリア王位を得た。
カール3世 Karl III
879年~887年
肥満王。兄カールマン2世からイタリア王位を譲り受ける。2人の兄の死後、東フランク王国を統一した。さらに西フランク王カールマン2世の死後、西フランクの有力者に推戴されて、西フランク王として即位した。これによりフランク王国の再統一を達成した。しかし、ノルマン人に対して屈辱的な講和を結んだことで、甥のアルヌルフが反乱を起こし廃位された。
ベレンガーリオ1世 Berengario I
888年~924年
カール3世が廃位されると諸侯が王位を争った。ベレンガーリオは母がルイ1世の娘であることから、王位を請求してイタリア王に選出された。しかしその後もイタリア王位を巡る抗争は続いた。
グイード・ダ・スポレート Guido da Spoleto
889年~894年
イタリア王位をベレンガーリオと争う。トレッビア川の戦いで勝利して、司教会議においてイタリア王に選出された。しかしローマ教皇との対立により、東フランク王アルヌルフがイタリアに侵攻してイタリア王に即位し争いは続いた。
ランベルト・ダ・スポレート Lamberto da Spoleto
891年~898年
グイード・ダ・スポレートの息子。父と共同のイタリア王として即位した。父の死後は幼少のため母アジェルトゥルデが摂政として統治した。
アルヌルフ Arnulf
894年~899年
東フランク王。叔父カール3世に反乱を起こし、廃位して東フランク王に即位した。894年にパヴィアの議会でイタリア王に選出された。後にイタリアに侵攻し、ローマ教皇に西ローマ皇帝として戴冠された。
ラトルド Ratold
896年
アルヌルフの息子。共同のイタリア王に任命されたが、1ヶ月ほどで死去した。
ロドヴィコ3世 Ludovico III
900年~905年
ロドヴィコ2世の外孫。ベレンガーリオ1世の対立王としてイタリア王に即位した。しかし、ベレンガーリオ1世との対決に敗北して失明させられた。
ルドルフ2世 Rudolf II
922年~933年
ブルグント王。イタリアに侵攻し、ベレンガーリオ1世を破りイタリア王に即位した。しかし、イタリア貴族が反乱を起こすようになったため、イタリアから撤退した。
ウーゴ・ディ・アルル Ugo d’Arles
926年~947年
盲目にされたロドヴィコ3世の摂政としてキスユラブルグント王国の実権を掌握した。ベレンガーリオ1世が暗殺された後、イタリア諸侯に推挙されてイタリア王に即位した。
ロターリオ2世 Lotario II
945年~950年
ウーゴ・ディ・アルルの息子。実権を掌握していたベレンガーリオ2世に毒殺さてたとされる。
ベレンガーリオ2世 Berengario II
950年~961年
ロターリオ2世の死後、イタリア王に即位した。しかしロターリオ2世の未亡人と息子の結婚を画策したことから、オットー1世のイタリア侵攻を招き、後にその臣下としてイタリアの統治を委された。その後ローマ教皇と対立し、オットー1世に敗れて追放された。
アダルベルト2世 Adalberto II
950年~963年
父ベレンガーリオ2世の共同の王として即位した。オットー1世との争いに敗れて追放された。

神聖ローマ帝国

ローマ王とは諸侯に選挙された神聖ローマ帝国君主が名乗った称号。
ローマ教皇による正式な戴冠によってローマ皇帝となる前の君主号。
教皇から戴冠されない場合や対立王の場合はドイツ王と呼ばれる。
名前は本名ではなく通称を表記しています。

名前 アルファベット表記 在位期間
説明
オットー1世 Otto I
962年~973年
東フランク王ハインリヒ1世の息子。イタリアを侵略してロターリオ2世の未亡人アデライーデと結婚しイタリア王に即位した。ベレンガーリオ親子がローマ教皇を攻めると、援助要請によりイタリアへ遠征しベレンガーリオ親子を討伐した。教皇から帝冠を受け神聖ローマ帝国を創始した。
オットー2世 Otto II
980年~983年
神聖ローマ帝国の初代皇帝オットー1世の息子。皇帝権の拡大の為イタリア遠征を行うが、南イタリアでイスラム勢力に敗れた。
オットー3世 Otto III
996年~1002年
神聖ローマ帝国の第2代皇帝オットー2世の息子。ローマ帝国の復興を試みイタリア遠征を行うが夭折した。
アルドゥイーノ・ディヴレーア Arduino d’Ivrea
1002年~1014年
オットー3世の死後、イタリア王に選出された。敵対する教会や諸侯の要請により、ハインリヒ2世が遠征してくると敗れて退位した。
ハインリヒ2世 Heinrich II
1004年~1024年
オットーネ3世の従兄弟。イタリアに遠征して、対立していたアルドゥイーノを破りイタリア王に即位した。聖職者の官僚化、教会人事の介入などの帝国教会政策を推進した。ポーランド王国の侵略によりマイセンなどを失った。
コンラート2世 Konrad II
1027年~1039年
ハインリヒ2世の死後、国王選挙でドイツ王国の王に選出された。イタリア遠征を行いイタリア王に即位、翌年ローマで帝冠を受けローマ皇帝に即位した。北イタリアの反ドイツ勢力を征服、ポーランド王位の争いに介入、相続によってブルグンドを併合など帝国の版図を拡大した。
ハインリヒ3世 Heinrich III
1039年~1056年
父コンラート2世の死後、皇帝に選出された。ポーランド王国、ボヘミア王国を服属させ帝国国境の東側を安泰にした。教皇位の簒奪、売買などローマ教会の問題を解決のため、3人のローマ教皇を罷免し混乱を収拾した。このように教会の腐敗を粛正し、教会改革と皇帝権の強化に努めた。
ハインリヒ4世 Heinrich IV
1080年~1106年
父ハインリヒ3世の死後、皇帝に選出された。幼少のため母が摂政として統治していたが、誘拐されてケルン大司教アンノが摂政として実権を掌握した。成年に達したのち親政を開始。ローマ教皇を無視して叙任権を行使し、司教を次々と任命した。激しい抗争になり教皇による破門が宣言された。これにより諸侯が集まり破門が解かれない場合は退位させると決議したため、カノッサ城門で破門の解除を願った。修道士の服装に裸足で3日間立ち続けようやく破門を解いてもらえた。これが「カノッサの屈辱」と呼ばれる事件。
ハインリヒ5世 Heinrich V
1106年~1125年
ハインリヒ4世の次男。父により後継者に決められていたが、叛旗を翻し王国会議で王に選出された。ローマ教皇との叙任権闘争をヴォルムス協約によって終息させた。しかし、それによりドイツ諸侯の離反を招いた。、
ロタール3世 Lothar III
1125年~1133年
ハインリヒ5世の死後、国王選挙によってドイツ王に選出された。シチリア王国の打倒のため、イタリア南部に遠征したが帰路の途中に死去した。
コンラート3世 Konrad III
1128年~1135年
ロタール3世の対立王に選出された。その後和睦したがロタール3世が死去したため、国王選挙によってドイツ王に選出された。第2回十字軍に参加したが敗北して撤退した。
フリードリヒ1世 Friedrich I
1154年~1190年
バルバロッサ Barbarossa (イタリア語で「赤髭」の意味) と呼ばれた。コンラート3世の甥。ドイツ国内ではハインリヒ獅子公をおさえるために諸侯に特権を与えて協調路線をとった。イタリア遠征ではミラノを征服したが、北イタリアの諸都市がロンバルディア同盟を結成して抵抗したため苦戦した。
ハインリヒ6世 Heinrich VI
1191年~1197年
フリードリヒ1世の息子。南イタリア遠征を行いシチリア王に即位した。ドイツ王位を世襲制に代えてこの代償として諸侯にも相続権を認める提案をしたが、反対に遭って計画は失敗に終わった。
フィリップ Philipp
1198年~1208年
フリードリヒ1世の末子。兄ハインリヒ6世の死後、幼少の甥フリードリヒ2世の後見者となる。しかしオットー4世がドイツ王に名乗りをあげ、それに対抗するために諸侯からドイツ王に推挙された。オットー4世との抗争に勝利したが、皇帝として帝冠を受ける前に暗殺された。
オットー4世 Otto IV
1208年~1215年
ハインリヒ獅子公の次男。ハインリヒ6世の死後、ローマ教皇や諸侯に擁立されてローマ王に選出された。対立王フィリップとの争いには敗北したが、フィリップが暗殺された為ローマ皇帝へ即位した。即位の際の誓約を反故にして教皇と対立して破門された。この処分の為廃位されて、フリードリヒ2世がローマ王に選出された。
フリードリヒ2世 Friedrich II
1215年~1250年
ハインリヒ6世の息子。オットー4世を破り帝冠を受けてローマ皇帝に即位した。シチリアの統治を重視して、本国ドイツの統治は息子ハインリヒに任せていたので、諸侯の分裂をもたらした。合理的な政策、信仰に対して寛容さ等から「玉座の上での最初の近代人」と評された。

大空位時代

神聖ローマ帝国で王権が不安定であった時代。
実際には空位ではなく帝位に就いた者がいたが、
弱小諸侯もしくは帝国外の人物が帝位を獲得していたので「大空位時代」と呼ばれている。
名前は本名ではなく通称を表記しています。

名前 アルファベット表記 在位期間
説明
コンラート4世 Konrad IV
1237年~1254年
フリードリヒ2世の次男。兄ハインリヒが反乱を起こして、廃され自殺したので父の後継者となる。父の死後、在位わずか4年で病死したため、大空位時代が始まる。
ウィルヘルム・フォン・ホラント Wilhelm von Holland
1247年~1256年
ローマ教皇と諸侯にフリードリヒ2世、コンラート4世の対立王としてローマ王に選出された。コンラート4世の死後、単独の王となるが遠征したさいに戦死した。
リチャード (初代コーンウォール伯) Richard (1st Earl of Cornwall)
1257年~1272年
イングランド王ジョンの二男。コンラート4世の死後、国王選挙でローマ王に選出されたが、イングランド国内の内乱により捕えられ、ローマ皇帝としての即位することはできなかった。
アルフォンソ10世 Alfonso X
1257年~1275年
カスティーリャ王国の国王。母のベアトリスがフリードリヒ2世の従姉妹だったことから神聖ローマ皇帝に名乗りを挙げた。リチャード(コーンウォール伯)ともにローマ王に選出されたが、教皇の反対で断念した。

ハプスブルク家の始祖

ハプスブルク家のルドルフ1世がドイツ王に選出され大空位時代に終止符を打った。
ルドルフ1世はオーストリアを獲得してウィーンに本拠地を移してハプスブルク家の繁栄の基礎を築いた。 しかし、ハプスブルク家が皇帝位を独占することはできなかった。
イタリアへの積極的な介入は行わず、ローマ教会と協調して統治をまかせた。

名前 アルファベット表記 在位期間
説明
ルドルフ1世 Rudolf I
1273年~1291年
ハプスブルク家初のドイツ王。国王選挙でドイツ王に選ばれ大空位時代に終止符を打った。ボヘミア王オタカル2世を戦死させて、オーストリア、シュタイアーマルク、ケルンテンを獲得してハプスブルク家の東方発展の基礎を築いた。
アドルフ・フォン・ナッサウ Adolf von Nassau
1292年~1298年
ルドルフ1世の死後、国王選挙でドイツ王に選出された。家門権力の強化を目指したことから、ドイツ諸侯の不信を買い廃位された。ルドルフ1世の息子アルブレヒト1世の軍に敗れ戦死した。
アルブレヒト1世 Albrecht I
1298年~1308年
ルドルフ1世の長男。アドルフが廃位された後、ゲルハイムの戦いでアドルフを破り、国王選挙でドイツ王に選出された。優れた政治手腕でハプスブルク家の勢力を拡大した。反乱の鎮圧中に甥のヨハンに暗殺された。

ルクセンブルグ朝

名前 アルファベット表記 在位期間
説明
ハインリヒ7世 Heinrich VII
1308年~1313年
ルクセンブルク伯。アルプレヒト1世が暗殺された後、ローマ教皇と選帝侯に支持されてドイツ王に即位した。長男ヨハンをボヘミア王の妹と婚姻させて、ボヘミア王に選出させることに成功して自家の勢力を拡大させた。ローマで皇帝戴冠式を行なった後、ナポリへの遠征中に死去した。
ルートヴィヒ4世 Ludwig IV
1314年~1347年
ヴィッテルスバッハ家。ハインリヒ7世の死後、ハプスブルク家のフリードリヒ3世の対立王に選出された。ミュールドルフの戦いでフリードリヒ3世を捕縛して共同王として優位に立つ。イタリア遠征を行いローマ教皇を廃位して、神聖ローマ皇帝の帝冠を受けた。
フリードリヒ3世 Friedrich III
1314年~1330年
ハプスブルク家。ハインリヒ7世の死後、ルートヴィヒ4世と王位を争った。ミュールドルフの戦いで大敗して捕虜となったが、共同統治を認められドイツを治めることになった。
カール4世 Karl IV
1346年~1378年
ルクセンブルク家のボヘミア王。ルートヴィヒ4世の対立王に選出された。イタリア遠征を行いローマで神聖ローマ皇帝として戴冠を受けた。ローマ教皇とイタリアへの政治的介入を行わないかわりに、教皇庁からの干渉を受けないことを確約した。
ヴェンツェル Wenzel
1376年~1400年
カール4世の次男。怠惰、衝動的な性格で数々の失政を犯したため、ローマ王を廃位された。
ループレヒト Ruprecht
1400年~1410年
ヴィッテルスバッハ家。ヴェンツェルが廃位された後、ドイツ王に選出された。ローマ教皇の戴冠を受ける為にイタリア遠征を行うが、軍資金が途中で尽きたため戴冠を諦め撤退した。
ジギスムント Sigismund
1410年~1437年
カール4世の三男。ループレヒトの死後、ドイツ王に選出された。キリスト教改革派のヤン・フスを火刑に処したためフス派が反乱を起こした。鎮圧のため軍を送るが大敗を喫した。

ハプスブルク朝

名前 アルファベット表記 在位期間
説明
アルブレヒト2世 Albrecht II
1438年~1439年
ジギスムントの娘婿。ジギスムントの死後、ドイツ王に選出された。ハンガリーをオスマン帝国の侵攻から防衛のための戦争中に急死した。
フリードリヒ3世 Friedrich III
1440年~1493年
又従兄のアルブレヒト2世の死後、ドイツ王に選出されローマで戴冠式と結婚式を同時に行なった。弟アルブレヒト6世が謀反を起こすが急死等、敵対者が次々と死亡する悪運に恵まれた。死後「神聖ローマ帝国の大愚図」という綽名を贈られた。
マクシミリアン1世 Maximilian I
1486年~1519年
フリードリヒ3世の息子。婚姻政策で領土を拡張して、ハプスブルク家の繁栄の基礎を築いた。ローマ教皇による戴冠式を行わなかった最初の皇帝。
カール5世 Karl V
1519年~1556年
スペイン国王などを兼ねヨーロッパ最大の帝国を築き上げた。祖父マクシミリアン1世の死後、皇帝選挙でフランス王フランソワ1世と争い、買収により選帝侯から全票を獲得して皇帝に選出された。神聖ローマ皇帝カール5世として即位。フランス王国、オスマン帝国との戦い、ドイツ国内の宗教戦争で心身共に疲弊し退位して隠遁した。
フェルディナント1世 Ferdinand I
1556年~1564年
兄カール5世から皇帝位を譲られて即位した。カトリックとプロテスタントによる宗教対立の収束を図るためアウクスブルクの和議を締結した。
マクシミリアン2世 Maximilian II
1564年~1576年
フェルディナント1世の息子。プロテスタントに傾くが父にカトリックの信仰に留まることを誓わされた。皇帝即位後は宗教的には緩和政策をとりプロテスタントとカトリックの和解に尽力した。
ルドルフ2世 Rudolf II
1576年~1612年
マクシミリアン2世の息子。学芸を保護したが政治的には無能で、プロテスタントを弾圧したことで宗教対立を激化させ混乱を招いて、死後、三十年戦争が勃発する禍根を作った。
マティアス Matthias
1612年~1619年
兄ルドルフ2世の死後、神聖ローマ皇帝に選出された。宗教的対立の調停を試みて失敗、ボヘミアでプロテスタントの反乱の渦中に死去した。
フェルディナント2世 Ferdinand II
1619年~1637年
ルドルフ2世、マティアスの従兄弟。厳格なカトリック教徒で、プロテスタントの弾圧を強めて三十年戦争の発端をつくった。プロテスタント勢力に各地で勝利して戦いを優位に進めてたが、スウェーデンやフランスの介入により戦争が長期化していくなか死去した。
フェルディナント3世 Ferdinand III
1637年~1657年
フェルディナント2世の息子。皇帝即位前から軍の指揮権を委ねられた。戦争が長期化するなか和平の実現に努めて、ヴェストファーレン条約を締結することで三十年戦争を終結させた。
ヴェストファーレン条約以降、イタリア王位は空位となる。

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