東ローマ帝国の皇帝一覧 (マケドニア朝~ 東ローマ帝国 滅亡)
名前は本名ではなく通称を表記しています。名前 | アルファベット表記 | 在位期間 |
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説明 | ||
バシレイオス1世 | Basileios I | 867年~886年 |
ミカエル3世に取り立てられ、副帝のバルダスを暗殺し、共同皇帝に任命された。その後、ミカエル3世を暗殺して単独皇帝となった。マケドニア朝を興す。建築物の造営、修復に力を入れ、またローマ法大全の実用化のため改訂しようと試みた。軍事的には南イタリアにテマを新設し、イスラム勢力の侵略を防いだ。 |
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レオン6世 | Leon VI | 886年~912年 |
父バシレイオス1世に共同皇帝として任命される。謀反の疑いをかけられ幽閉されるが、復権した直後に父が急死したため単独皇帝となった。「ローマ法大全」のギリシア語による改訂版ともいえる法律全集「バシリカ」を刊行するなど、法律や行政に優れた功績を残した。軍事面では敗北が続き、成功を収めることができなかった。 |
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アレクサンドロス | Aleksandros | 912年~913年 |
レオン6世の弟。レオン6世の息子コンスタンティノス7世が幼少だったため後見を務めるが、1年あまりで病死した。 |
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コンスタンティノス7世 | Konstantinos VII | 913年~959年 |
幼くして即位するが母ゾエ・カルボノプシナの摂政、その後、舅のロマノス1世レカペノスに共同皇帝に格下げられ実権を握られた。ロマノス1世に後継者に指名され、ロマノス1世の二人の息子を追放し名実ともに皇帝となる。文芸活動に熱中しマケドニア・ルネサンスと呼ばれるビザンティン文化の黄金時代を迎えた。 |
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ロマノス1世レカペノス | Romanos I Lekapenos | 920年~944年 |
ブルガリア帝国に敗れた摂政ゾエ・カルボノプシナを追放し、娘をコンスタンティノス7世に嫁がせて共同皇帝となり、帝国の実権を掌握した。コンスタンティノス7世を後継者として指名したことで、二人の息子に追放された。 |
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ロマノス2世 | Romanos II | 959年~963年 |
父コンスタンティノス7世の逝去後、皇帝に即位した。政務には関心がなく臣下に任せきりであったが、クレタ島を奪回など一定の成果をあげた。即位してからわずか4年で早世した。 |
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ニケフォロス2世フォカス | Nikephoros II Phokas | 963年~969年 |
ロマノス2世が死去後、後継者バシレイオスが幼少だったため、宦官との争いに勝ち実権を掌握、バシレイオスの母テオファノと結婚し皇帝として即位した。軍事的に帝国領の拡大に成功を収めたが、それに伴う戦費調達のため重税を課し民衆からの支持を失った。皇后テオファノの愛人ヨハネスに暗殺された。 |
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ヨハネス1世ツィミスケス | Iohannes I Tzimiskes | 969年~976年 |
皇帝ニケフォロス2世の皇后テオファノの愛人となり、ニケフォロス2世を暗殺して皇帝に即位した。先帝の軍事拡大路線を受け継ぎ、キエフ大公を破りブルガリア東部を制圧、ファーティマ朝を相手にメソポタミア北部、シリア諸都市やパレスチナ地方を占領するなど成功を収めた。 |
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バシレイオス2世 | Basileios II | 976年~1025年 |
ヨハネス1世の死後、正帝として即位。第一次ブルガリア帝国などの周辺地域を征服し、東ローマ帝国の最盛期を築いた。緊縮財政を敷き、国家財政の健全化を成し遂げた。ブルガロクトノス(ブルガリア人殺し)という渾名で呼ばれた。
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コンスタンティノス8世 | Konstantinos VIII | 1025年~1028年 |
兄バシレイオス2世の死後、正帝として即位した。政務を好まず遊興にふける日々を送り、バシレイオス2世が残した財産は浪費された。
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ロマノス3世アルギュロス | Romanos III Argyros | 1028年~1034年 |
コンスタンティノス8世の次女と結婚させられ、皇帝に即位した。修道院の多数建設して、財政を破綻寸前に追い込んだ。東方へ遠征を行ったが、イスラム勢力に大敗した。
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ミカエル4世 | Mikhael IV | 1034年~1041年 |
ロマノス3世アルギュロスの皇后ゾエの愛人。ロマノス3世を暗殺後、ゾエと結婚して皇帝に即位。軍事面ではファーティマ朝と和睦するなど成功を収めたが、てんかんを病んだため、兄ヨハネス・オルファノトロフォスが政治の実権を担う。
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ミカエル5世 | Mikhael V | 1041年~1042年 |
ミカエル4世の甥。皇太后ゾエを追放しようと企んだが、民衆に反乱を起こされ盲目にされて追放された。
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ゾエ | Zoe | 1042年 |
ミカエル5世の追放後、妹テオドラと共に女帝として即位した。しかしテオドラは2ヵ月後に退位、ゾエはコンスタンティノス9世モノマコスと結婚して夫を帝位につけた。
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テオドラ | Theodora | 1042年 |
ミカエル5世の追放後、姉ゾエと共に女帝として即位した。しかし2ヵ月後に退位した。 |
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コンスタンティノス9世モノマコス | Konstantinos IX Monomakhos | 1042年~1055年 |
元老院議員であったが女帝ゾエと結婚し、皇帝に即位した。傭兵制の導入や財政難を補うために軍縮を推進したが、軍事貴族出身の将軍達の反感を買い反乱を起こされた。その影響でノルマン人が南イタリアに侵入し、イタリアの帝国領は失われた。 |
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ミカエル6世ストラティオティコス | Mikhael VI Stratiotikos | 1056年~1057年 |
テオドラの養子。テオドラの遺言により皇帝に即位した。文官政権に反発した軍人貴族イサキウスが反乱を起こし、コンスタンティノープルに入城した後、イサキオスに皇位を譲って退位した。 |
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イサキオス1世コムネノス | Isaakios I Komnenos | 1057年~1059年 |
ミカエル6世に対して反乱を起こし退位させて、自らが皇帝となった。軍事力の強化、財政再建を目標に税金の徴収の厳格化や修道院の財産没収などの改革を行うが、多くの反発を招いた。 |
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コンスタンティノス10世ドゥーカス | Konstantinos X Dukas | 1059年~1067年 |
イサキオス1世が退位した後、皇帝に即位した。反軍国主義を唱え、軍事費を削ったため、国の東西から外敵の侵入が始まり領土を次々と侵食されていった。また官職売買制度を導入して官制を乱した。 |
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エウドキア・マクレンボリティサ | Eudokia Makrembolitissa | 1067年~1068年 |
夫コンスタンティノス10世が逝去した後、女帝として即位した。カッパドキアの将軍ロマノス・ディオゲネスと結婚し、皇位を譲って即位させた。 |
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ロマノス4世ディオゲネス | Romanos IV Diogenes | 1068年~1071年 |
エウドキア・マクレンボリティサと結婚し、皇位を譲られて即位した。セルジューク朝との戦いで大敗したうえ捕虜となり皇位を廃位された。 |
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ミカエル7世ドゥーカス | Mikhael VII Dukas | 1071年~1078年 |
コンスタンティノス10世の長男。ロマノス4世がセルジューク朝の捕虜になったあと、母エウドキアがミカエルを皇帝として即位させた。バーリがノルマン人によって占領され、東ローマ帝国の南イタリア支配も終わりを告げた。穀物貿易を国営化したため物価上昇を招き、内政不安により、帝位をねらう反乱が続発した。 |
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ニケフォロス3世ボタネイアテス | Nikephoros III Botaneiates | 1078年~1081年 |
小アジアで反乱を起こしコンスタンティノープルへ入城を果たすと、退位したミカエル7世に代わり皇帝として即位した。貴族の反乱やセルジューク朝の侵攻など混乱が続くなか、アレクシオス・コムネノスが反乱を起こしてコンスタンティノープルへ進軍してくると、退位して修道院へ隠退した。 |
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アレクシオス1世コムネノス | Alexios I Komnenos | 1081年~1118年 |
ケフォロス3世ボタネイアに反乱を起こし、退位させて自身が皇帝として即位した。巧みな外交戦略でベネチアと同盟を結ぶことでノルマン人を撃退し、クマン族の協力でペチェネグ族を壊滅させるなど対外的に成功を収めた。しかしルーム・セルジューク朝を討つため、ローマ教皇ウルバヌス2世に援助要請をしたことで、第1回十字軍を招き、十字軍の乱暴狼藉や略奪によって逆に疲弊してしまう。 |
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ヨハネス2世コムネノス | Ioannes II Komnenos | 1118年~1143年 |
父アレクシオス1世コムネノスの逝去後、皇帝として即位した。姉が夫を帝位につけようとする簒奪未遂事件が起こったが、姉を殺さないという寛大な処置を取ったため、「カロヨハネス」(心美しきヨハネス)と呼ばれた。来襲したペチェネグ人を撃退、キリキアのアルメニア王国を滅ぼすなど、対外的に成果をあげて名君といわれた。 |
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マヌエル1世コムネノス | Manuel I Komnenos | 1143年~1180年 |
ヨハネス2世コムネノスの四男。ローマ帝国の再興を目指し対外進出を精力的に行い、アンティオキア公国、ハンガリー、セルビアに一時的に宗主権を認めさせた。しかし相次ぐ遠征や建設事業で財政の破綻、ベネチアとの関係悪化やルーム・セルジューク朝との戦いに敗れたことで帝国は衰退していった。 |
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アレクシオス2世コムネノス | Aleksios II Komnenos | 1180年~1183年 |
父マヌエル1世コムネノスが逝去後に、後を継いで即位。幼少だったため母マリアが摂政として後見を務めていたが、アンドロニコス1世に反乱を起こされ殺されてしまう。実権を掌握し共同皇帝に即位した、アンドロニコス1世に暗殺された。 |
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アンドロニコス1世コムネノス | Andronikos I Komnenos | 1183年~1185年 |
アレクシオス2世の共同皇帝となった後に、アレクシオス2世を殺害して正帝に即位した。暴虐的な政治や周辺国の侵略により領土を失ったことで、民衆の不満が爆発し反乱が起き殺害された。 |
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イサキオス2世アンゲロス | Isaakios II Angelos | 1185年~1195年 |
アンドロニコス1世に反乱を起こし、皇帝に即位した。第二次ブルガリア帝国が建国され、2度遠征を試みるも失敗。3度目のブルガリア遠征計画中に弟のアレクシオスに廃位された。 |
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アレクシオス3世アンゲロス | Alexios III Angelos | 1195年~1203年 |
イサキオス2世アンゲロスの弟。ブルガリア遠征に反対してクーデターを起こし、兄を幽閉して廃位して自らが皇帝に即位した。兄の息子アレクシオス4世が、第4回十字軍でコンスタンティノープルに侵攻してくると、廃位され追放された。 |
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アレクシオス4世アンゲロス | Alexios IV Angelos | 1203年~1204年 |
イサキオス2世アンゲロスの息子。父が廃位されると、神聖ローマ帝国に亡命した。第4回十字軍を遠征資金の負担や東西教会の統一を条件に味方につけ、コンスタンティノープルに侵攻すると、父を助け出して共同皇帝として即位した。しかし第4回十字軍の協力に対する負担が過酷だったため、反乱を起こされ、父と共に殺害された。 |
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アレクシオス5世ドゥーカス | Alexios IV Angelos | 1203年~1204年 |
第4回十字軍に不満が高まると反乱を起こし、アレクシオス4世を殺害して自ら皇帝として即位した。約束を反故にしたことで第4回十字軍に攻撃され、城壁へ侵入されると逃亡した。後に十字軍に捕縛され、処刑された。 |
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コンスタンティノス・ラスカリス | Konstantinos Laskares | 1204年 |
アレクシオス5世ドゥーカスが逃亡したあと、コンスタンティノープルが陥落直前に皇帝に即位。陥落後、弟テオドロスとともに小アジアに逃亡した。 |
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テオドロス1世ラスカリス | Theodoros I Laskares | 1205年~1222年 |
コンスタンティノープルが陥落後に兄コンスタンティノスと共に首都を脱出した。ニカイアで亡命政権の「ニカイア帝国」を建国し、ローマ皇帝を称した。トレビゾンド帝国、ルーム・セルジューク朝を破るなど勢力を拡大し、東ローマ帝国の亡命政権の地位を確立した。 |
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ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェス | Ioannes III Dukas Batatzes | 1222年~1254年 |
テオドロス1世ラスカリスの娘イレーネの夫。義父の死後、皇帝として即位。有能な軍人でラテン王国に勝ち、またエピロス専制侯国に宗主権を認めさせた。さらにエーゲ海の島々およびアドリアノープルの奪回などニカイア帝国の領土を倍増した。 |
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テオドロス2世ラスカリス | Theodoros II Laskares | 1254年~1258年 |
父ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェスの逝去後、皇帝として即位。哲学や神学に詳しい知識人で、皇帝による専制を強化し官僚を使い、貴族勢力を抑えた。 |
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ヨハネス4世ラスカリス | Ioannes IV Laskares | 1258年~1261年 |
父テオドロス2世ラスカリスの逝去後、皇帝として即位。幼少だったため共同皇帝となった、摂政ミカエル・パレオロゴスに実権を奪われた。コンスタンティノープル奪回後、目を潰されて幽閉された。 |
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ミカエル8世パレオロゴス | Michael VIII Palaiologos | 1261年~1282年 |
ヨハネス4世ラスカリスの摂政を務め、共同皇帝となり実権を掌握した。ラテン帝国軍が出払っている隙に、コンスタンティノープルを奪回して、ヨハネス4世を廃して正皇帝として即位。婚姻など外交戦略を駆使して、パレオロゴス朝の基礎を築いた。また東西両教会の統一を試みるが、かえって国内の宗教的分裂を招いた。 |
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アンドロニコス2世パレオロゴス | Andronikos II Palaiologos | 1282年~1328年 |
父ミカエル8世パレオロゴスの逝去後、皇帝として即位。オスマン帝国に対抗するため傭兵部隊を雇うが、逆に国内を荒らされる結果となる。帝位をめぐり孫のアンドロニコスが起こした反乱で敗北して廃位された。 |
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ミカエル9世パレオロゴス | Mikhael IX Palaiologos | 1294年~1320年 |
父アンドロニコス2世パレオロゴスに共同皇帝に任命された。父と息子アンドロニコスの関係が悪化し対立していくなか病没した。 |
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アンドロニコス3世パレオロゴス | Andronikos III Palaiologos | 1328年~1341年 |
祖父アンドロニコス2世パレオロゴスに帝位継承権を剥奪されたことで反乱を起こした。減税などの人気取り政策を約束して民衆の支持を獲得し、祖父を退位させ皇帝に即位した。小アジアをオスマン帝国に奪われるが、エピロス専制侯国の併合に成功した。 |
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ヨハネス5世パレオロゴス | Ioannes V Palaiologos | 1341年~1376年 |
父アンドロニコス3世パレオロゴスの逝去後、皇帝として即位。母の皇太后とヨアンネス14世カレカス総主教が摂政として実権を握ったが、父の重臣ヨハネス・カンタクゼノスと対立し内乱に突入する。内乱はカンタクゼノスの勝利に終わり、ヨハネス5世と娘を結婚させて自ら皇帝として即位した。次第にヨハネス6世との対立を深め、一旦亡命を余儀なくされるも、レスボス島の領主の支援で帰国し、ヨハネス6世に譲位させた。 |
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ヨハネス6世カンタクゼノス | Ioannes Ⅵ Kantakouzenos | 1347年~1354年 |
ヨハネス5世の摂政、母の皇太后とヨアンネス14世カレカス総主教と対立し内乱に突入する。オスマン帝国の支援で内乱に勝利し、ヨハネス5世と娘を結婚させて自ら皇帝として即位した。次第にヨハネス5世との対立を深め、一旦は勝利するもヨハネス5世がコンスタンティノープルに帰還すると隠遁した。 |
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マテオス・カンダクジノス | Matthaios Kantakouzenos | 1353年~1357年 |
ヨハネス6世カンタクゼノスの息子。ヨハネス5世との争いに勝利して、共同皇帝に任命された。しかし、ヨハネス5世がコンスタンティノープルに帰還し父が廃位されると、アドリアノープルで抵抗したがしばらくして退位宣言をした。 |
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アンドロニコス4世パレオロゴス | Andronikos IV Palaiologos | 1376年~1379年 |
ヨハネス5世パレオロゴスの息子。オスマン帝国皇帝ムラト1世の長男サヴジと手を組んだ反乱に失敗し帝位継承から外された。ムラト1世の支持も獲得して再度の反乱を起こし、父と二人の弟を投獄して皇帝に即位した。統治は長く続かず、父たちが脱獄すると帝位を追われた。 |
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ヨハネス7世パレオロゴス | Ioannes VII Palaiologos | 1391年~1425年 |
ヨハネス5世パレオロゴスの息子。父が祖父に反乱を起こして失敗したその巻き添えを食らい、幼少時に目潰しを受けた。オスマン帝国とジェノヴァ人の支援を受けて、祖父を追放してコンスタンティノープルに入城し皇帝に即位した。しかし民衆の支持は低く、ベネチアの支援を受けた祖父にコンスタンティノープルを追放された。 |
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マヌエル2世パレオロゴス | Manouel II Palaiologos | 1391年~1425年 |
アンドロニコス4世パレオロゴスの息子。父が逝去後に即位した。オスマン帝国によって東ローマ帝国は滅亡の危機に瀕していた。西欧に赴いて軍事援助を求めてたが、具体的な成果は得られなかった。外交努力で帝国の維持に奔走したが、臣従と多額の貢納金支払いという結果に終わる。 |
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ヨハネス8世パレオロゴス | Ioannes VIII Palaiologos | 1425年~1448年 |
マヌエル2世パレオロゴスの息子。父の逝去後、単独の皇帝として即位。オスマン帝国に対抗するため軍事援助を求めて、東西両教会の統一の約束、ローマ教皇の首位権を認めるなどしたが成果はなかった。 |
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コンスタンティノス11世 | Konstantinos XI | 1449年~1453年 |
ヨハネス8世パレオロゴスの弟。東ローマ帝国最後の皇帝。東西教会統一を宣言したものの、援軍は得られず国内の猛反対にもあい成果が得られないうちにオスマン帝国に包囲された。2ヶ月にわたる攻防戦の末にコンスタンティノープルは陥落し、自身は市内で戦死した。東ローマ帝国は滅亡した。 |