東ローマ皇帝の一覧 ( 東西 分裂後~ アモリア朝 )
名前は本名ではなく通称を表記しています。名前 | アルファベット表記 | 在位期間 |
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説明 | ||
アルカディウス | Arcadivs | 383年~408年 |
テオドシウス1世の長男。政治に興味をもたず、フラウィウス・アンテミウスを事実上の摂政をして政務を任せた。 |
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テオドシウス2世 | Theodosius II | 408年~450年 |
アルカディウスの息子。神学や学問に熱中し政務は重臣が取り仕切っていた。カリグラフォス(能書家)という渾名で呼ばれた。 |
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マルキアヌス | Marcianus | 450年~457年 |
テオドシウス2世の姉と結婚し、皇帝に即位した。カルケドン公会議を開催し、キリスト単性説を異端として退けた。またローマとコンスタンチノープルの大司教は同等の地位にあることが定められた。 |
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レオ1世 | Leo I | 457年~474年 |
マルキアヌスが逝去した後、軍務長官アスパルに擁立され皇帝に即位した。北アフリカのヴァンダル王ガイセリックに対抗するため西ローマ皇帝にアンテミウスを任命した。両帝国共同で大規模な艦隊を派遣したが大敗をし、多額の賠償金を支払い講和した。 |
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レオ2世 | Leo II | 474年 |
レオ1世の外孫、母がレオ1世の娘。幼年だったため、父ゼノンが後見役を務めた。 |
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ゼノン | Zenon | 474年~491年 |
レオ2世が夭折したため正帝として即位した。即位してから1年足らずで反乱が起こり、皇位を追われた。翌年、故郷であるイサウリアから軍を率いて、コンスタンティノポリスに進軍し皇帝として復位した。東西ローマ皇帝の地位を廃止し、ローマ帝国全土のローマ皇帝となった。 |
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バシリスクス | Basiliscus | 475年~476年 |
皇帝ゼノンを故郷に追放して、自ら皇帝に即位した。翌年、首都奪回を企てたゼノンに敗れてカッパドキアに追放された。 |
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アナスタシウス1世 | Anastasius I | 491年~518年 |
ゼノンの後継者として皇帝に即位した。複数の経済政策を実施し,貨幣経済の確立に努めて財政再建を実現した。 |
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ユスティヌス1世 | Justinus I | 518年~527年 |
アナスタシウス1世逝去後に元老院に擁立され皇帝に即位した。高い知識を持つ甥で養子のユスティニアヌスが、事実上の摂政の役割を果たしていた。 |
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ユスティニアヌス1世 | Justinianus I | 527年~565年 |
叔父のユスティヌスの腹心として実権掌握し、叔父の逝去後、皇帝に即位した。貴賎問わず有能な臣下を起用し、バンダル王国、東ゴート王国を征服、西ゴート王国を破り、一時的に古代ローマ帝国を回復した。後に大帝と呼ばれる。 |
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ユスティヌス2世 | Justinus II | 565年~578年 |
ユスティニアヌス1世の妹の息子。帝国は広大な領土を回復したが、征服事業により民衆は疲弊し財政は破綻していた。異民族の侵入やサーサーン朝に対する敗戦などが原因となり精神を病んで、実権を娘婿の副帝ティベリウス2世に譲った。 |
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ティベリウス2世 | Tiberius II | 578年~582年 |
ユスティヌス2世の友人。副帝となり実権を譲られ、ユスティヌス2世の逝去後、皇帝に即位した。サーサーン朝の対策に努めたが、わずか4年で死去した。 |
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マウリキウス | Mauricius | 582年~602年 |
ティベリウス2世の娘婿。異民族対策にラヴェンナ、カルタゴに総督府を設置した。サーサーン朝から亡命してきたホスロー2世を助け、復位を果たすとサーサーン朝と和睦した。遠征先で軍隊の反乱が起こり、皇位を簒奪されて処刑された。 |
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フォカス | Phokas | 602年~610年 |
軍隊がドナウ北岸での越冬命令に反対して反乱を起こし、皇帝マウリキウスを捕えて処刑した。その後軍隊に推挙され皇帝に即位した。敵討ちを名目に出兵してきたサーサーン朝ペルシアとの戦争が開始した。カルタゴ総督ヘラクレイオスが起こした反乱で首都が陥落し処刑された。 |
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ヘラクレイオス | Herakleios | 610年~641年 |
帝位を簒奪したフォカスに反乱を起こし、処刑したあと即位した。サーサーン朝ペルシアとの戦争には勝利したが、イスラム教を信仰するアラブ軍の度重なる侵攻を受けた。帝国の公用語をラテン語からギリシア語に変えた。 |
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コンスタンティノス3世 | Constantinus III | 641年 |
ヘラクレイオスの長男。共同皇帝のヘラクロナス派との争いの中死亡。 |
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ヘラクロナス | Heraclonas | 641年 |
コンスタンティノス3世が急死し単独の皇帝となる。暗殺疑惑から内乱が起こり、帝位を廃位、追放された。 |
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コンスタンス2世 | Constans II | 641年~668年 |
コンスタンティノス3世の息子。父の死後に共同皇帝となりヘラクロナスが追放後、単独の皇帝となる。イスラムの侵略により領土や地中海での制海権が失われていった。イスラムと和平成立後は西方に遠征、ローマを訪問した。ポゴナトス(“髭が生えている”の意)とも呼ばれた。 |
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コンスタンティノス4世 | Konstantinos IV | 668年~685年 |
父コンスタンス2世により共同皇帝に任じられ、父の暗殺後に単独の皇帝となる。ウマイヤ朝によるコンスタンティノープル攻撃を、「ギリシアの火」を使用するなどして撃退した。 |
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ユスティニアノス2世 | Justinianos II | 685年~695年 |
コンスタンティノス4世の長男。ウマイア朝に対する遠征の軍費、首都建設の為などの重税を強いた。こうした状況でレオンティオスが反乱を起こし、鼻を削がれた上で追放された。 |
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レオンティオス | Leontios | 695年~698年 |
サーカス党派の力を借りて反乱を起こし、ユスティニアノス2世を追放し、自ら皇帝として即位した。カルタゴに派遣した帝国艦隊に反乱を起こされ、敗れ廃位された。 |
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ティベリオス3世 | Tiberios III | 698年~705年 |
カルタゴを奪われクレタ島まで撤退してきた帝国艦隊に擁立され反乱を起こす。コンスタンティノポリスを攻略し、レオンティオスを廃して皇帝に即位した。周辺国の支援を受け復位を狙ったユスティニアノス2世により、廃され処刑された。 |
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ユスティニアノス2世 | Justinianos II | 705年~711年 |
削がれた鼻の代わりに黄金製の付け鼻をつけ、皇帝に復位。復位後は異常に猜疑心が強くなり、多くの人々を粛清した。ケルソンに派遣した艦隊に反乱を起こされ、処刑された。 |
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フィリピコス・バルダネス | Philippikos Bardanes | 711年~713年 |
ケルソンに派遣した艦隊に擁立され皇帝に即位。単意説を支持やウマイヤ朝、第一次ブルガリア帝国の侵攻により不満が高まったことで、クーデターが起こり幽閉され盲目にされた。 |
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アナスタシオス2世 | Anastasios II | 713年~715年 |
フィリピコス・バルダネスにクーデターを起こし皇帝に即位。ロードス島で反乱を起こした艦隊が、コンスタンティノープルを攻略後に降伏して退位した。 |
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テオドシオス3世 | Teodosios III | 715年~717年 |
アナスタシオス2世に対して起きた反乱で擁立され皇帝を僭称する。コンスタンティノープルを攻略後に即位。軍事的才がなかったため、反乱を起こされて退位した。 |
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レオン3世 | Leon III | 717年~741年 |
テオドシオス3世を退位させ、皇帝に即位した。即位直後、ウマイヤ朝の軍にコンスタンティノープルを包囲されるが撃退することに成功する。テマ制の再編など帝国内の混乱を収拾し、秩序を回復した。聖像破壊運動(イコノクラスム)を開始したことでも知られる。 |
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コンスタンティノス5世 | Konstantinos V | 741年~775年 |
父レオン3世の逝去後、皇帝に即位。即位翌年、義理の兄弟に反乱を起こされて皇位を追われるが、小アジアのテマの支持を受け、743年に皇帝に復位した。外征で多くの勝利を収め、国境を東へ押し戻し、民衆や軍からは軍神のごとく称えられていたという。ブルガリア遠征中に陣没した。 |
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レオン4世 | Leon IV | 775年~780年 |
父コンスタンティノス5世の逝去後、皇帝に即位。病弱で30歳の若さで死去。 |
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コンスタンティノス6世 | Konstantinos VI | 780年~797年 |
父レオン4世の逝去後、皇帝に即位。幼少だったので、生母エイレーネーが摂政となって政治を取り仕切る。イコノクラスムでの対立やブルガリア遠征の失敗で、母に目をくりぬかれて追放された。 |
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エイレーネー | Eirene | 797年~802年 |
レオン4世の皇后で、子のコンスタンティノス6世を追放し、ローマ帝国史上初の女帝に即位。帝国西方では僭称として認められず、ローマ教皇によってフランク王国の国王カールが、ローマ皇帝に戴冠された。その後、財務長官ニケフォロスのクーデターによって廃位された。 |
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ニケフォロス1世 | Nicephorus I | 802年~811年 |
クーデターにより退位したエイレーネーにかわり、税務長官から皇帝に即位した。多くの経済政策を実施して、疲弊した財政立て直しに着手した。ブルガリア遠征で一旦は首都を制圧するが、その後戦死した。 |
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スタウラキオス | Staurakios | 803年~811年 |
父ニケフォロス1世によって共同皇帝に任命される。父の戦死した戦いで瀕死の重傷を負う。ミカエル1世ランガベーに禅譲して引退した。 |
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ミカエル1世ランガベー | Michael I ho Rangabe | 811年~813年 |
義兄のスタウラキオスによって皇帝の座を譲られて即位した。東ローマ帝国で初の家門名(ランガベ)を持つ皇帝。ブルガリアと戦い敗北した後、レオン5世に譲位して修道士となった。 |
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レオン5世 | Leon V | 813年~820年 |
ミカエル1世がブルガリア敗れた後、皇帝の座を譲られて即位した。ブルガリアにコンスタンティノープルを包囲されるが防衛に成功する。翌年ブルガリアのハーン・クルムが急死すると跡を継いだオムルタグと和平を結んだ。親友のミカエルを捕らえ処刑しようとしたが、ミカエルの支持者に暗殺された。 |
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ミカエル2世 | Mikhael II | 820年~829年 |
レオン5世とは親友だったが、次第に両者の仲は険悪になり逮捕された。クリスマスで処刑が1日延期されたため、支持者がレオン5世を暗殺し、皇帝に即位した。地中海にイスラム勢力の侵攻が相次いだが、効果的な方策はとれなかった。 |
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テオフィロス | Theophilos | 829年~842年 |
ミカエル2世の息子。市中で住民の意見を聞くなど公正な皇帝として知られる。また貨幣の大量発行など経済政策にも取り組んだ。アッバース朝に対して何度か遠征を行うが、大きな成果を挙げられず、地中海でもイスラム勢力の侵攻を防ぐことはできなかった。ギリシア語で「神に愛されし者」の意味の名前。 |
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ミカエル3世 | Mikhael III | 842年~867年 |
父テオフィロスが逝去時幼少だったので、母テオドラと宦官のテオクティストスが政治を取り仕切る。成人してから、叔父バルダスの力をかりて、母を追放して親政を開始した。晩年は、馬丁出身のバシレイオスを重用し共同皇帝に任命したが、のち衝突し暗殺された。 |